創世工房Low-Rewrite

 「…………」
 校内は予想以上に騒々しかった。
 今日は二月十四日。この国に住んでいる以上、硬派な俺でも知っているイベント。バレンタインデー当日だ。
 下駄箱前でそわそわしながら立っている男子。小声で会話をしながらクスクスと笑う女子。皆一様に何かに期待し、期待させられて、浮足立った雰囲気が学校全体に漂っている。
 「…………ちっ」舌打ちは渇いた空気の中で弾けて消えた。
 正直、くだらないと思う。
 何がバレンタインデーだ。聖職者の命日に企業の策略に乗せられ菓子を送る日なんて、硬派な男には毛頭必要がない。生まれてから十七年、チョコがもらえなくて拗ねている訳では断じてない。それは明言できる。
 廊下も教室も、やはり変わらず色めきだった歯の浮くような空気。馬鹿馬鹿しくなり、教室に入るなり、俺は鞄だけ 机に置くとそのまま男子トイレへと足早に向かう。
 ああいった空気は苦手だ。あの中にいると自然と周りに流され、硬派な自分を否定してしまう気がしてならないからだ。
 こう考えるということ自体、硬派な男ならば本来し得ないことだ。俺がまだまだ未熟だということは分かっている。 それは古野の件とも合わせて、近年俺を悩ます種の一つだ。しかし、どうしてもあの空気になれることができない。
 毎年バレンタインの日の休み時間はこうしてトイレで過ごした。教室のみならず、校庭、食堂、図書館、体育館。校内のあらゆるところで青い春を満喫している男女の気配がムンムンと俺を誘惑するから。
 「……くだらねぇ」
 俺は吐き捨てるように言うと、個室の中に引きこもった。朝のホームルームまではこうしていよう。時には勇気ある逃避が出来るのも男だ。そう自分に言い聞かせながら。


 「いてて……。見ろよ、こんなに腫れちまって。色男が台無しだぜ」
 中井は俺を鏡越しに睨みながら言うと、傷に絆創膏を貼っつけた。
 「お前がいちいちうるさいからだ。少しはその軟派な性格を直しやがれ」
 「ハーア。直ぐこれだもんな。硬派な男は厳しいねー」
 小馬鹿にしたような口調に額をしかめるが、駄目だ駄目だ。直ぐに手をあげるのは男のすることじゃないからと自分に言い聞かせ握った拳を解く。
 「ていうか。お前の方こそ少しは俺みたいに女の子に優しくなれよなぁ。硬派硬派じゃ女の子にモテないぞ」
 「なんだよそれ。お前のは下心だろうが」
 「んなことねーよ。俺は女の子への優しさでできてるんだからな。いつでもどこでも誰にでも。優しく出来るのも立派な男の条件だと思うがな」
 ……確かに一理ある。誰にでも優しくできるのは男だ。硬派かどうかは不明だが、それは男らしいと素直に思う。
 「お前、たまにいいこと言うよな」
 「なんだよ、たまにって。俺はいつでもいいことしか言わないだろうが。プレゼントを貰った時ですら、相手への気遣いを最優先に考える男だぜ。俺は」
 「お前……女からプレゼント貰ったことないだろうが」
 褒めると直ぐ調子に乗りやがる。こいつもこの癖だけでも直せば少しはマシになるんだがな。そんなことを思いながら中井の「貰ったことあるわ! 今日も貰ったわ!」という妄言を聞き流していると。
 「美樹は今年チョコあげるのー」
 手洗い場の近くから、笑いあう女子の楽しげな声が聞こえてきた。吹き抜けになっているこの場所は、階下の声がよく通る。それなのに階下からはこの手洗い場は陰になっていてよく見えないという盗聴に最適な作りになっていた。
 「えー内緒―」
 「なんでよー。私教えてあげたんだから美樹も教えてよー」
 「それは裕子が自分から言ったんでしょー」
 最初は聞き間違いかと思ったが、違う。この若干ハスキーな、それでいてよく通る声は間違いなく古野美樹のものだ。
 「去年は渡せなかったんでしょー。今年こそは渡すんだよね? 大好きなあ・の・ひ・と・に」
 「もうやめてよー! ……まあ、渡すけど」
 やっぱりと合点の行った友人の声がして、再び笑いあう二人の声。恐らくベンチにでも座っているのだろう。二人の声は遠ざかることなくその場に留まっていた。
 その時、俺の肩に触れるものがあった。振り返ると、中井が右手を俺の肩に置いている。そしておもむろに左手を顔の高さまで持ってくると――
 「ドンマイ!」
 満面の、爽やかな笑顔で親指を立てた。殴り倒したのは言うまでもない。
 しかし、中井を殴っても尚、晴れない靄が胸の内にかかって取れない。
 古野の意中の相手とは誰なのか。本当にチョコをあげるのか。それはあくまで義理であって、本命ではないのでないか。
 ぐるぐると渦を巻く思いが、頭の中で掻き消えることなくわだかまりとなる。床でうずくまる中井を放置し教室に戻った後も、それはずっと俺の中に残っていた。
 残りの授業中も休み時間も、ひたすら俺はそのことについてのみ考え続けていた。初めてバレンタインの休み時間を教室で過ごしたかもしれない。しかし、バレンタインデーの教室の空気なんてものは、もはやどうでもよかった。
 昼食も喉を通らない。中井が俺の弁当のおかずを勝手につまんだのに、起こる気力も起きなかった。中井自身、いよいよ以ておかしいと思ったのか、俺に話しかけてくる奴らに話しかけないように言ってくれたらしい。中井の友人思いな面を始めて見た気がする。本当に。
 「なあ、恭介。そんなに気になるなら確かめに行けばいいじゃんかよー」
 放課後の事だった。
 中井は俺の机に凭れかかり、鬱陶しいことこの上ないのだが、その考えには賛成だった。
 「……確かにちゃんと確かめもせずに悶々とするのは良くないな。行くか」
 善は急げ。俺は鞄を引っ掴むとその足で古野のクラスへと向かった、の、だが。
 「うわっちゃー……」
 同伴の中井が思わず手で顔を覆った。
 決意して教室を出て、本当に間もなくの事だった。俺たちは見てしまった。古野が廊下の突き当たりで男子生徒にチョコレート思しき包みを手渡しているところを。
 中井のように顔を手で覆うなりすれば良かったのに、俺の手は動かなかった。それどころか、足も首も動かない。その場に根を張ったように俺は呆然と立ち尽くした。
 古野は男子に包みを渡すと、そのまま突き当りを右に曲がっていった。もしこっちに来られたら、対応出来ずにその場に卒倒したかもしれないから、そこは不幸中の幸いだった。
 「……あの男子生徒は確か古野と同じバスケ部だな。よく女子が黄色い声で部活を覗いてるって噂だぜ」
 古野と別れた後、教室前で他の女子に声を掛けられている男子を睨みながら、チャラ男・中井の分析する。見ると、古野以外にも短時間で四、五人の女子が彼に贈り物をしていた。
 「茶髪で髪長くてしかもピアスか……。恭介とは真逆のタイプだな」
 中井が小声で「あいつがモテるなら俺にもチャンスが?」と呟いたのはこの際どうでもいい。結局は遊んでいても、チャラチャラしていても硬派な奴より軟派な奴の方がモテるということだろうが。
 「フンッ!」
 八つ当たりで抑えられない怒りを中井に吐き出す。今日一で重い拳が鳩尾に入ったため、中井は呻きながらその場に倒れた。
 父の言うことは間違っていた。結局は硬派にしていてもモテない奴はモテない。チャラついていても、モテる奴はモテるのだ。
 先程ショックのあまり床に落としてしまった鞄を拾い上げ、俺は足早にその場を離れた。
 人のせいにするのは男のすることではない。普段ならそう自分を戒めるところだが、今の俺はそんなことを考えたくもなかった。
 今までやってきた全てが一瞬で泡沫に帰した気分だ。自分の存在を否定されたと言っても過言ではない。胸から込み上げてくる熱い感情と、それに伴い熱を帯びていく目頭。そしてそんな自分を情けないと思う今までの自分。
 色々な感情が入り乱れて頭の中が混沌を極めた時だった。
 「おーい鈴木君。今帰りー?」
 下駄箱の手前で背後から呼び止められた。呼び止めたのは、今一番会いたくない人物――古野だった。
 「……なんだよ」
 「いやー、偶然見かけたからさ。今から帰るなら途中まで一緒に……どうかな?」
 朝までの俺なら瀕死の重傷を負う程の申し出。しかし今は、嫌悪を沸々と湧き上がらせるだけだ。
 「いや、いいよ。今日は寄るところがあるから」
 勿論嘘だ。ただ、古野と一緒に居たくない。その一心で口からでまかせを言ったのだ。
 「あ、そうなんだ……。じゃあさ、鈴木君が行くところの手前までなら良い?」
 「いや、本当に悪いな。俺急いでるから」
 「あ、ご、ごめんね? 引き止めちゃって……」
 一瞬。胸が痛んだ。その痛みは、いつも古野と話すときの痛みとは全く違う、心の奥底を抉るような痛みだった。
 「あ、あのね? 急いでるところ本当に申し訳ないんだけど……。私、鈴木君に渡したいものがあって……
 古野はそう言うと鞄の中をまさぐり始めた。刹那、恐怖が俺を支配する。
 もし、渡されたものが義理のチョコだったら? もしただの友達に渡すだけのものだったら? 本命はあのバスケ部の男子だったら? それとも別に本命がいたとしたら
 様々な思いが巡り巡って、反射的に俺の手は彼女が出した包みを払っていた。
 「いらねえよそんなもん! どうせ他の男にもあげてんだろうが! 俺はそういうチャラチャラしたのが一番大っ嫌いなんだよ!」
 お菓子が床に落ちた乾いた音。布が床と擦れる音。遠くで聞こえる運動部の気合い。間近の生徒たちの喧騒。彼女が漏らす、驚きの吐息。
 聞きたくないもの全てを遮りたくて、がむしゃらに叫んだ。我に返ったときには、全てが遅かった。
 「――っ!」
 涙で潤んだ瞳は、俺を今まで魅了してきたそのどれとも異なっていた。歪んだ唇が、少し開いた直後。
 「……ごめん」
 聞き取れるギリギリの声量で、捻りだされた苦しげな謝罪。俺は返す言葉も見つからないままにただその場に立ち尽くした。
 古野は、俺から逃げるように鞄を抱え、昇降口を飛び出した。踵を潰した状態では、靴が傷んでしまう。そんなことの心配をして、俺は感情のみ、その場から逃走した。
 「いってー……。おい恭介! お前いきなり俺のこと殴ってそのまま帰るとかそれでも男か!」
 鳩尾を押さえた中井がおぼつかない足取りで近付いてきた。床に倒れていたからなのか、制服のブレザーに誇りがこびりついている。
 「……どうかしたのか?」
 立ち尽くす俺の表情を見て、中井は深刻な雰囲気を感じ取ったらしい。普段の中井では見ることが出来ない真面目な表情は、チャラ男とは思えない。
 「……いや、別に」
 「別にってことはないだろ。お前凄い顔してるぞ」
 中井が指さした俺の顔。やはり表情が死んでいたのかもしれない。
 「本当に何でもねえよ」
 「おい、恭介!」
 中井が引き止めるのを無視し、下駄箱へ靴を取りに向かった時。
 「あれ? 何だこれ?」
 先程、古野が落とした包みを中井が拾い上げていた。中井の行動を制止出来ずに、「あ……」と零れた俺の声はその場で行き場なく霧消した。
 「お、これチョコじゃん。誰か恋する乙女が落としてしまったのだと見たぞ!」
 重い空気を変えようとしたのか、中井は無理に明るい声を出した。わざとおどけて、雰囲気を和らげようとするのは中井の癖だった。
 「もしかしたら俺のかもしれないしー。俺がこの包みを開けるのは仕方ないよねー」
 自分勝手な大義名分を言うが早いか、中井は古野の包みを開け始めた。俺は帰ろうという気持ちも忘れ、中井の動作を注視していた。
 「あれ、これ手作りだ。スゲー綺麗に出来てる。……しかも超美味い!」
 中井は開封に留まらず、あろうことか古野のチョコを食べ始めた。しかし、俺への義理チョコが中井に食べられたということに、俺は怒りを覚えることが出来なかった。
 「マジうめー。あ、しかも手紙付じゃん! 俺への熱い愛が綴られていないかなー……」
 薄桃色の紙を手にした中井は、それまでの鬱陶しい程のハイテンションはどこへやら、急に静かになった。
 暫くすると手紙を読み終えたのか、中井は俺へ向き直ると、足早に近づき――
 「フンッ!」
 左頬を思い切り殴られた。
 突然のことに呆然とする俺の胸ぐらを掴むと、中井は今まで見たことがない剣幕で俺を睨みつけた。
 「俺はここで何があったのか知らないけどな。お前がこの包みを床に転がしていた理由は知らないけどな。それでもお前は男だったらしてはいけないことをしたんだってのは分かる。……お前それでも男かよ!」
 「な……」
 「お前、この手紙読んだのかよ。読んでないだろ? 開封すらしてないもんな。もしかしたら受け取ってすらいないんだろ。見損なったぞこの野郎!」
 中井は俺の胸ぐらを掴んだまま、もう一度俺の左頬を殴りつけた。友人の言葉がいちいち図星過ぎて、俺は反論すら出来ない。
 「……お前、古野を追いかけろよ。今すぐに! 行け!」
 激高する中井に押され、俺は何も言えないまま靴を履き替え、昇降口を後にした。その際、中井が俺の手に握らせた 古野の包み。中では薄桃色の手紙が乾いた音を立てていた。
 校門を目指す最中、風の抵抗を受けながら開かれた手紙に、俺は唇を歪ませた。
 『鈴木君へ
 初めて手紙を書くのでとても緊張しています。一年生の時に同じ委員会の仕事をしていた時から、鈴木君のことが気になっていました。今回勇気を出して、チョコレートを作ってみました。お口に合うか分かりませんが、受け取ってください。
 古野美樹』
 とにかく足を動かした。息が乱れ、髪が乱れ、上着が乱れ。そんなことに構っている余裕はなかった。俺は男として 決して下はいけない子としたのだ。
 『いいか、恭介。男たるもの、如何なる理由があろうとも、女子供を泣かせてはいけないぞ。寧ろ女子供を守り、その涙を拭いてやるのが男の役目だ』
 父の言葉が頭の中で反芻される。俺は本当に大馬鹿野郎だ。
 古野はいつも学校から程近い駅の方からやって来る。急がないと、電車に乗られてしまう。そうなってしまったらもう二度と話せない。そんな気がして仕方ない。大袈裟かもしれない。しかし、俺の頑固な性格を考えると大袈裟な話ではないのだ。
 駅はバレンタイン一色に染まっていた。道行く人だかりはカップルが多かった。駅前に軒を連ねる商店も、バレンタイン色が濃厚な商品を扱っている。基本的にイメージカラーはピンクだ。
 辺りを見回しても、古野の姿は見当たらない。もしかしたらもう既に電車に乗ってしまったのでは? そんな考えを振り払い、駅周辺を探し続ける。
 「さっきの怖かったねー。あの女の子大丈夫かな」
 駅裏へ向かう通りにさしかかった時、通行人のそんな会話を耳にした。
 まさかとは思うが、可能性がない訳ではない。逸る気持ちを抑え、その通行人が来た方角に足を向けると――いた。
 古野らしき女子高生を、数人の男性が囲んでいる。お茶に誘うにしてはあまりに危険な香りが漂っている。これは犯罪の一歩手前だと、頭の中で警笛が鳴る。
 「いいから早く来いって言ってんだよ! 可愛い顔に傷つけたくねーだろ?」
 一人の男が声荒げてそう言うと、女子高生の腕を強く掴み、無理矢理引っ張った。男に腕を引かれ、体勢が崩れた女子高生。男たちの体の隙間から見えたその顔は、泣いていた。
 古野美樹は恐怖に怯えたようにプルプルと震えながら、泣いていた。刹那、胸の内から湧いてきた熱い感情に突き動かされ、俺は走り、叫んだ。
 「何してんだコラァあああああ!」
 驚いて振り返る男たち。俺は一番手前に居た男の顔面を殴りつけると、勢いを殺さずに隣の男も殴りつけた。
 「な、なんだこいつ!」
 男の一人が逃げようとするのを上段の廻し蹴りで遮り、回転した体は最後の一人――古野の腕を掴んだ男も蹴り飛ばした。
 情動に突き動かされ、暴力を振るう。そんなことはどうでもよかった。
 怒りが収まらなかった。
 自分の情けなさへの怒り。バレンタインと言う面倒臭いイベントへの怒り。男たちへの怒り。
 殴って収まるようなものでもない。俺はまだまだ未熟なのだ。
 「おい、お前何してんだ!」
 「うわ、ひでーな」
 俺が来た方角から、更に数人男たちがやってきた。警官ではない。おそらく今倒した男たちの仲間だろう。
 バレンタインで浮かれる女の子を捕まえて、暴行するのが狙いの不良たちと見て間違いない。収まりどころのない怒りが、また沸々と湧き上がりはじめた。
 「何がバレンタインだ……。とことんやってやろうじゃねえかぁああああ!」
 固く握った拳を解くことなく俺は男たちとの間合いを詰めた。






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